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燃えよ剣52

发布日期:2022-10-20 12-13-50文章来源:易学国际教育文章原创作者:小易浏览次数:52
信息摘要:
勝沼の戦い歳三はただ一騎、山路を縫い、谷川を駈けわたり、村々を疾風のようにかけぬけて、神奈川の菜葉隊本営へむかってはしった。「援軍依頼」これ以外に、甲州で勝つ手はない。(それまで近藤が、もちこたえてくれるかどうか)いや、近藤ならやるだろう。当代、戦さをやれば、じぶんと近藤ほどつ...
勝沼の戦い
歳三はただ一騎、山路を縫い、谷川を駈けわたり、村々を疾風のようにかけぬけて、神奈川の菜葉隊本営へむかってはしった。 「援軍依頼」 これ以外に、甲州で勝つ手はない。 (それまで近藤が、もちこたえてくれるかどうか) いや、近藤ならやるだろう。当代、戦さをやれば、じぶんと近藤ほどつよい者はないという信念が、歳三のどこかにある。京における新選組の歴史がそれを証明するであろう。 夜がふけ、やがて朝がちかづいた。 歳三は必死に駈けた。 さいわい、雪中である。視界はしらじらとして、燈火がなくともさほどの不自由さはなかった。 小仏峠を越えたとき、あたりがぱっと白《しら》んだ。陽が昇った。 その刻限、駒飼の名主屋敷を本陣として一泊した近藤は、ゆうゆうと朝の陽のなかに出た。 庭を散歩しはじめた。 やどを貸している名主は、 (大久保大和などというお旗本は武鑑にも出ていないが、さすが一党の大将だな) と感嘆したという。 近藤は屋敷うちをひとまわりまわってから隊士十人をあつめ、それぞれに同文の書きつけをわたし、 「近郷の村々に行っていそぎ兵をつのるように」 と、出発させた。 書きつけには、近藤の自筆で、 徳川家御為に尽力致し候輩《やから》は、御挽回の後、恩賞可|致《いたすべき》者也《ものなり》 大久保大和|昌宜《まさよし》 とある。 近藤は徳川家の|御挽《ヽヽ》回《ヽ》を信じていたし、甲州百万石の夢もすてていなかった。 甲州の農村にも、近藤同様、夢のある血気者が多いとみえて、夕ぐれまでにみるからに屈強な連中が、二十人ほどあつまってきた。 そのなかで、いかにも眼つきの油断ならぬ若者がいて、他の甲州者はひどくこの男に遠慮をしている。 「君は何者かね」 と、近藤はすぐ眼をつけた。 「雨宮《あめのみや》敬次郎」 ふてぶてしく答える。 「苗字《みようじ》をゆるされているのか」 「いかにも」 甲州東山梨郡の小さな庄屋の息子である。 近藤は、さらにたずねた。 「ご紋をみるに、マルに上の字とは見なれぬ御家紋だが、なにか由緒がおありなのか」 「武田信玄の部将、雨宮山城守正重を家祖とし、武田家滅亡後は野にかくれて三百年、里正《りせい》(名主・庄屋)をつとめます。いま天下争乱に際遇し、ぜひ功名をたてて家を興し先祖の武名をあげたいと存ずる」 ひどい甲州なまりである。 「それはご殊勝な」 と、近藤もかたちをあらためた。自分もだんだん戦国の武将のような気持になってきたらしい。 「われら甲陽鎮撫隊は、前将軍家(慶喜)から甲州百万石の沙汰をまかされている。西軍を追ってみごと斬りとらば、働きに応じ、十分の恩賞を頂戴できます」 「ありがたいことです」 「貴下を甲州組の組頭にしたいが、ほかのかたがた、ご異存はござらんな」 「ありませぬ」 くちぐちにとなえた。 この雨宮敬次郎、このときは正気で甲州ぶんどりを考えたらしい。 こののち変転し、明治十三年、今後はパンの需要がたかまるに相違ないとみて、東京深川に小麦製粉所を作って大もうけをし、そののち各種の投機事業にくびをつっこんで、そのほとんどに成功した。もっとも、東京市水道鉄管事件という疑獄で投獄されたが、出獄後、市電の敷設にはしりまわったり、川越鉄道、甲武鉄道、北海道炭礦などに関係して巨富を得た。明治四十四年、死去。 「さて、雨宮君、さっそくだが」 と、地図の上の勝沼をさした。 「ここに貴隊をもって、関所をつくってもらいたい」 勝沼は、この駒飼の山中から甲府盆地におりたところにある宿場で、三里足らず。 近藤は、ここを防衛の最前線とし、歳三の援軍の到着しだい、勝沼から五里むこうの甲府城におしだそうと考えていた。 雨宮らは、荷車に柵をつくる材木をつみあげ、近藤からもらったミニエー銃をかつぎ、威風堂々と山をおりていった。 「ちえっ」 原田左之助は、そのあまりにも堂々とした雨宮のうしろ姿に舌打ちをした。 「火事場泥棒め」といいたかったところだろう。 さらに近藤は、本営をわずかに前進させることとし、柏尾《かしお》(いまは勝沼町にふくまれる)を要害とみて、ここに野戦築城をすることにした。 柏尾は、もう眼の下に甲府盆地を見おろす街道ぞいの山村で、たしかに要害といっていい。 陣地は、村のひがしの丘陵(柏尾山)にもうけ、神願沢《じんがんざわ》の水を堀に見たて、街道の橋をきりおとした。 さらに丘陵に砲二門をひっぱりあげて眼下の街道をななめ射ちできるようにし、街道のあちこちに鹿砦《ろくさい》を植えこんだ。
一方、甲府城に入った官軍指揮官板垣退助のもとに、ひんぴんと情報が入っている。 「柏尾に、しきりと東軍が出没している」 というのである。 「例の大久保大和という人物だな」 この名は、武鑑でしらべ、甲州開城のときに旧藩士にもきいたが、ついに正体が知れないままである。 板垣退助ら土佐人は、新選組をにくむこともっともはなはだしい。もし近藤とわかればただでおかない下地がある。なぜなら、新選組が京で斬った人数を藩別にすれば、長州人よりもむしろ土佐人が多かった。薩摩人への加害は皆無だったが。 板垣は、一情報では、敵将の名が、 「近藤勇平」 であるともきいている。事実、近藤は、ふた通りの変名をつかったのだが、このときも、まさか近藤勇であるとはおもわなかった。 とにかく、板垣は、土佐藩よりすぐりの指揮官五人をえらび、進発させた。
 谷守部 片岡健吉(のちの自由民権運動家・衆議院議長) 小笠原謙吉 長谷重喜 北村長兵衛
 谷守部は、鳥羽伏見いらい官軍が遭遇する最初の敵とあって用心ぶかい態度をとり、しきりと斥候をはなって敵情をさぐったが、人数千人といううわさもあり、さらに数万の後続部隊が来る、といううわさもあって、どうもよくわからない。 いずれも、近藤が、村々にむかってとばした虚報である。 「とにかく、ぶちあたることだ」 と、砲隊長の北村長兵衛がいった。 かくて、北村の砲兵を先頭に勝沼へむかって前進しはじめた。この時代の砲は射程がみじかいため、軍の先頭をゆくのが常識であった。 すでに天は晴れ、山野の雪もとけはじめている。 勝沼の宿場に入ったとき、北村長兵衛は大胆にも兵五、六人をつれ、砲二門を急進させて町の中央に出た。 その街道中央に、例の急造の関所がひかえている。守備兵は雨宮敬次郎ら十人ほどの甲州組である。 北村長兵衛は、赤毛のシャグマをなびかせて、柵にあゆみよった。 「この天下の公道に、柵をもうけさせたのはたれかね。ひらきなさい」 時候のあいさつでもするように、ゆっくりといった。 柵内では雨宮が進み出て、 「開けるわけにはいかぬ」 にべもなくいった。 「おや、なぜだろう」 「隊長の命でここを守っている。隊長の命がなければあけられぬ」 「隊長の名は、何という」 「知らぬ」 「そうか、ではやむをえぬ」 北村はうしろの砲にむかって、 「射ちかた用意」 命じすてて左側の旅籠の軒下にとびこむや、射て、と命じた。 轟《ごう》っ と、四斤山砲が火を噴いた。 発射煙がしずまったとき、すでに柵内には人がなく、はるかむこうを雨宮敬次郎ら十人がころぶように逃げていた。砲弾はその頭上をこえて、むこうに炸裂した(雨宮はどうやらこのまま逃げっぱなしで横浜へ行ったらしい)。 柵をひらいて北村らがとびこみ、勝沼の宿場じゅう捜索したが、もう敵兵はひとりもいない。 宿場の者にきくと、 「守兵はあの連中だけだった」 という。 この勝沼宿場での発砲が、東征軍の最初の砲声だったことになる。 谷守部がやってきて、 「敵は柏尾山にいる。この勝沼を前哨線として柵を作ったのだろう。それが十人そこそこの人数だとすると、柏尾の本陣の人数はその二十倍もあるまい」 そう計算した。ほぼ的中している。 即座に、前進した。
 近藤は、柏尾山上にいる。 「来た」 と、原田左之助がのびあがった。 「近藤先生、赤のシャグマだとすると、土州の連中ですよ」 薩州が黒、長州が白、土州が赤、ということにきまっている。 この三藩はすべて洋式化されていたが、それでも戦闘法に特徴があり、おなじ小銃射撃法でも長州は臥射《ねうち》、薩州は立射《たちうち》、土州は射撃をすぐやめて斬りこみをやった。 「土佐か」 近藤には、とりわけて敵に対する知識はなかったが、おもいだされるのは京のことである。 「池田屋では、土佐のやつをずいぶん斬ったものだ。野老《ところ》山《やま》五吉郎、石川潤次郎、北添|佶麿《よしまろ》、望月亀弥太……」 「そうだったねえ」 原田左之助も、往事をおもって茫然たる顔つきである。 「それから、天王山の一番乗り」 と、横で、永倉新八がいった。 元治元年蛤御門ノ変で、長州軍が敗走し、そのうちの浪士隊が天王山にこもった。幕軍がこれを包囲し、新選組がまっさきかけて駈けのぼった。 が、そこには真木和泉ら十七人の志士の自刃死体があっただけである。そのうち土州浪士は、松山深蔵、千屋菊次郎、能勢達太郎、安藤真之助。 「時勢もかわればかわるものだ」 近藤は、往事の夢がさめやらぬおももちでいる。 「永倉君。池田屋では、最初、君などと五人で斬りこんだものだった。それでもどうとも思わなかったが」 いまは、ちがう。 当時は、京都守護職から動員された諸藩の警戒兵が三千もあり、その包囲警戒のなかで新選組は、ぞんぶんにきりこむことができた。 当時は時流に乗ったからこそ働けたが、いまは相手が時流に乗ってきている。 近藤の天然理心流の術語でいえば、双方の「気組《きぐみ》」の差が大きい。 (はて、戦さになるかどうか) にわか募集の兵は、大半逃げてしまって、残っている連中も、山肌にはりついて動かない。 「尾形君」 と、近藤は、眼下の街道わきに身をよせている尾形俊太郎をよんだ。 「敵が近づいている。そろそろ橋むこうに火をかけたほうがいいだろう」 「承知しました」 尾形は、農兵十人ほどに松明《たいまつ》をもたせ、橋むこうに突進して、たちまち民家数軒に火をかけた。 ぼーっ、と数条の火があがり、もうもうたる白煙が、近藤陣地の前面を覆いはじめた。古法による戦術で、煙幕の役目をはたすし、民家も敵の銃隊に利用されることをふせげる。
 この白煙を、谷守部らがみて、ほぼ敵陣地の位置がわかった。 「兵を三道にわかとう」 と、谷守部は敵陣の地形を遠望しながらいった。諸隊長も、賛成した。 谷自身は、五十人に砲二門をひきいて本街道を直進する。 片岡健吉、小笠原謙吉は、五百人をひきいて敵前面の日川《ひかわ》をわたり、右手の山をよじのぼって進む。 長谷重喜は左手の山にのぼって、山上、街道上の敵を乱撃しつつ前進する。 「では」 と、谷守部がうなずくと、諸隊長は四方に走って自隊にもどり、ただちに前進した。この軽快さは、組織された藩兵の強味である。 やがて日川東岸に達すると、双方、猛烈な射撃戦を開始した。 近藤は山上に突っ立った。 (歳はまだ帰らんか) ふと背後を見わたしたが、鬼神でもないかぎり、こう早くは神奈川との往復ができるはずがない。 「射て、射て」 近藤は、馴れぬ射撃指揮をしていたが、にわか集めの射手たちは、ミニエー銃を一発ぶっぱなしては十歩逃げるという|てい《ヽヽ》たら《ヽヽ》く《ヽ》で、どうみても戦さをするかっこうではない。 「やむをえぬ。斬りこめ」 近藤は、どなった。が、往年の新選組幹部たちは、みな銃隊の指揮者になって、あちこちに散らばっているために、結束した白兵《はくひよう》部隊にはならない。 近藤のそばには、「近習《きんじゆう》」として、京都以来の平隊士三品一郎、松原新太郎、佐久間健助などがいる。 これらが抜きつれた。 前面の稜線《りようせん》上にすでに敵が這いあがってきて、眼鼻だちまではっきりとみえる。 「斬りこめ」 近藤は、走った。右手がきかないために、刀を左手にもっている。 衝突した土州部隊は、小笠原謙吉の隊である。先鋒のみだから十数人しかいない。 山上で、乱闘になった。 近藤は、左手ながらもすさまじく働き、たちまち土州兵三人を斬りすて、さらに荒れくるった。 (何者だ) と、小笠原謙吉はおもった。小笠原は槍術の妙手といわれた男だが、むろん槍を戦場にもってきていない。 剣をぬいて戦った。 近藤に肉薄しようとして、一隊士(松原新太郎か)に邪魔された。 とびあがりざま、松原の肩を斬った。松原がよろめくところを、小笠原隊の半隊長今村和助が、背後から斬りさげ、さらにとどめを刺した。あとでこの松原(?)の刀を検分すると、撃《う》ち痕《あと》がみなつばもとから五寸以内にあり、|つば《ヽヽ》ぜり《ヽヽ》あい《ヽヽ》の激闘をしたことを思わせる。 近藤は、敵の人数がいよいよふえてくるのに閉口し、 「退《ひ》くんだ」 と一令すると、すばやく背後の松林に逃げこみ、さらに笹子峠にむかって退却しはじめた。 笹子峠で敗兵をまとめ、攻めのぼってくる敵にさらに一撃をあたえようとしたが、原田左之助が気のない顔で、 「よそう」 といった。 「そうか、八王子まで退くか」 八王子までひきあげると、兵はもう五十そこそこになっている。 「いかん、江戸まで帰ろう」 と、ここで甲陽鎮撫隊を解散し、新選組はそれぞれ平服にきかえて、三々五々、江戸へ落ちることにした。 そのころ歳三も、東海道を江戸へむかって走っていた。 神奈川で援軍をことわられ、この上は江戸へもどって前将軍慶喜にかけあい、直接兵を借りようとおもったのである。 むろん、歳三は、甲州で近藤がすでに潰走していようとは、夢にも知らない。
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